アオガミライのインタビューのこけら落としは廣江寛さんのインタビューです。
昔の青ヶ島のこと、島を出て東京での驚きばかりの生活から島に戻ってきたこと、青ヶ島の未来のことを沢山お聞きしました。
青ヶ島の黒潮の様な荒々しい波乱万丈の人生を三部に分けてお届けします。
第一部の今回は高校生活までをお送りいたします。
お名前と年齢を教えてください。
広江寛(ひろえ ゆたか)。64。
今の天皇陛下とお誕生日が一緒だね。でも今上天皇様は2年遅れだから62。
寛で、みんなからは「ゆたぽん」と。
それははお前だけだよ(笑)
今の家族構成はどうですか?
奥さんと息子と娘。
息子は39かな?娘は38になるのか。
じゃあお孫さんもいらっしゃる?
娘の孫が2歳。息子はまだ。
ゆたぽんの兄弟は何人ぐらいいるの?
10人いたけど、2人亡くなって今8人。
男が8人、女が2人。
ゆたぽんは上から何番目ですか?
俺は5番目でちょうど真ん中ね。
一番下と上とで24歳、年の差がある。
でもうちの長男とは、一緒にここで生活した記憶はほとんどない。
妹は12歳違うけど、俺がおんぶして学校行ったりとかして生活してたよ。
俺が15まで島にいたからね。だから2年弱くらい。
妹の名前も俺が「ナオミ」ってつけたし、お兄ちゃんお兄ちゃんって言って、今も妹が来るけど、
兄貴は島に戻ってきてから、一緒に生活したことがあるから話はするけどね。
だから一番下の子は一番上の子とはあんまり話したりしない。
だって一緒に生活したことがないし、兄弟だとも思ってないから。
こう言うと語弊があるかもしれないけど、自分の長男の娘と妹がほとんど変わんないから。
一緒に生活したことがないから、妹が兄貴のとこへ行く時は俺を頼りにしたりする。
そうしないと話が噛み合わないから。
兄弟の橋渡しの役割をしていたんですね。
そうそう。ちょうど中間だからね。今言った様に一緒に生活したことがあるから。
今でも兄弟で集まったりは?
するよ。
集まる時は俺がいないと、妹からしたらすると行きたくないというか会いづらいというか。
お兄ちゃん一緒に行こうって言われて、誘われる。
それは年一回?
何かあった時だよ。
今その妹はフランスに住んでるから、中々これないからっていうのもある。
他の兄弟は島には今4人住んでるからね。
今と昔の青ヶ島での生活が全然違うと思いますが、人口や電気なども含めて何が一番違うと思いますか?
親父が若い頃は貧乏だったと思うよ。貧乏ってお金のことじゃなく、生活がね。
だから毎日働いてたね。もちろん今の人も十分働いてるけどね。
その当時、両親はなんの仕事をしていたの?
普段の仕事をしながら、家に帰ってきたら牛や豚、鶏を養ったり。
生き物だから絶えず餌をあげて、面倒を見なくちゃいけないでしょ?
そう考えるとそれも仕事でしょ?もちろんそれがお金になるからね。
今の人だと1日行って働いて、いくらになるって仕事をやってるわけでしょ?
それが終わったり、日曜なら休みだし。
俺が思うに、昔の人は雨が降ったり台風だって時は休むけど、休みがなかったんじゃないの?
毎日働いてた記憶がある。
子供の頃に俺らも牛の草を刈ったり、学校から帰ったら親が入れる様に風呂沸かして。
うちの親父やお袋もそうだけど、畑仕事するんだもん。
兄弟も仕事の手伝いを?
そうそう。家のことをやんなくちゃいけないわけじゃん。
牛の面倒をみたりとかもあるし。365日休みがない様なもんで。
その手伝いとして風呂沸かしたり、お酒も作ってるからお酒が瓶に溜まっていくのを見て、親に教えてあげたりだとか。
電気がなかった時はランプを使ってたから、使っていると煤が付くからさ。
掃除をしたりとか。
あと明日葉を取りに行ったり。ちょうど今が時期だけど茗荷を取りに行ったりだとかさ。
家の裏のすぐそこに畑があるからさ。
サツマイモの時期になれば、取ってきて家まで担いできたら、皮を剥いて「きんぼし」を作るために切ったりとか。
そういう仕事が子供の頃は結構あったね。
子供の頃の勉強や遊びの違いはありましたか?
今の子も勉強もやってるか知らないけど(笑)
ある程度の年になると、外へ出て魚釣りに行くとかするのもいるけど。
今の子供は家にこもってゲーム機とかで遊ぶからさ。
俺らは生まれた時から仕事した様なもんだよ。動ける様になったらさ兄弟の面倒もみなくちゃいけない。
俺なんかいつも思うけど、ここ(おでこの上辺り)を触るとひっこんでるんだよ。
カゴを頭で背負うとここに紐の跡がつくんだよ。
今でも微妙にだけど、不思議なくらいひっこんでるんだよね。
だってここから港、魚釣り場まで親父が魚釣ってるから取りに行けって言われて行くんだよ。
行く時は下りだけど、帰りは4kmの山道を登って。
それで何キロもするカゴを背負ってたから、今でも微妙にだけどその跡が残ってるんだよ。
そりゃ子供の頃は乗り物がなかったから。
あとサツマイモを集める時も。
そこら中の畑からサツマイモを1箇所に集めて、穴を掘って貯蔵しとくわけだよ。
それを時期になったら、きんぼしを作るために皮を剥いて、細かく切って、吊るして乾燥させて。
その乾燥させたやつを煮て、その当時小豆が高かったんだけど、その中に小豆を入れて作るとものすごく美味いんだ。食ったらびっくりするよ。ご馳走だったね。
最近食ったことないな。そういえばな。
作ってる家は中里かなんかでやってるみたいだけど。
前はたまに直子おばさんが作ってくれたけど、最近は年だからやってないんでしょ?
きんぼしは美味しかったけど、しばらく食べてないよ。
ちっちゃい時はどんな遊びをしてたの?
遊び?なんだろうな。海行ったり泳いだりしたし、魚釣りもしたし。
ここの下に家があるんだけど、そこが一周防風林で木が埋まってるんだよ。
桜や椿の木とかが埋まって、微妙にだけど間隔が狭かったり、そこを地面に降りないで、木に飛び移って一周する。
だけど結構難しいとこもあるんだよ。
ちょっと離れてるとこは木の上に登って、飛び移るとこがあるんだよ。
それができるかできないかが、下のきみえさんとか富士子さんとかやすひろだとかやすおだとか、それをみんなでできるかどうかで競って遊んだ記憶があるよ。
いかに早く回るか。家の周り2軒分をずっとぐるーっと伝わるから、結構距離があるぞ。
青ヶ島には何歳までいました?
中学までだよ。15の時。尾崎豊じゃないけど。
みんな東京へ出ていくんだ1回は。
夢を持ってな。
高校はどこへ?
高校は世田谷の都立高校。
1年目は新聞配達をしながら。苦労したよ。
その当時はね、新聞配達をしながら高校を卒業するというのは珍しくて。
大学生だと新聞配達をして奨学金を貰って、それで授業料を払うんだよ。
だけど俺は都立で授業料が安いから。
その当時ね月25,000円ぐらい貰ってたね。
300軒ぐらい配達するんだけど、新聞に広告チラシが入るんだよ。
それが1ヶ月多い月と多くない月があるんだよ。
例えばシーズン。チラシの多いシーズンと言えば年末のお歳暮。夏のお中元シーズンというのはチラシが多くなるから、紙が多くなって一部がすごく分厚くなるんだよ。
自転車のカゴに高く積んでさ、残りは社長さんがさ配達車にも置いといてくれるんだよ。
配り終わったら、それをまた乗せ替えて大体300軒ぐらい回るんだよ。
それを1年やって新聞配達は卒業。
2年目はパン屋さんで、ベルトコンベアで流れてくるパンを重ねて10枚ずつ箱に入れるアルバイト。
この時は川崎の溝の口に引っ越して、アパートの隣には大学生が住んでいて、その人に仕事を紹介してもらって、同じ大学生のフリをして面接して使ってもらった。
それで朝普通に学校に行って。
なんでそういう風になったかっていうと1年目で新聞配達をやって、夕刊を15時半ぐらいに配り始めるからさ、学校が15時ちょっと前に終わるとさ、速攻で帰んなくちゃいけないんだよ。
だから1年目はほとんど友達がいなかったよ。
毎日学校で授業を受けて、新聞配達。
朝刊を配ってるから朝は眠いしさ。
友達は話し相手は結構いたけど、一緒に遊ぶってことはほとんどなかったね。
新聞配達が終わると寮に帰って、大学生と一緒だったから、その人と話したりとかくらい。
2年目からは学校が終わったら、自由が丘ってとこにみんなで遊び行ってさ。
その時覚えたのが雀球つってさ、パチンコみたいに麻雀の役が並ぶと景品がもらえるやつがあるんだよ。
それで遊んで、友達とよくつるんで喫茶店に行って遊んでたね。
その頃の友達が今でも付き合ってる。悪仲間だけどさ。
そのあとはパン屋のアルバイト。沢山働いてたから金が良かったからね。
バイトはね、芸能人じゃないけど他にもいっぱいしたよ。
タクシーを洗うバイトとかさ、食堂の出前配達もやったし。溝口の駅前で。
あれもまあまあ金もらえてたし。いろんなバイトしたね。
高校生でそんなに働くって一般的なの?
そんなにしないよ。だって世田谷だからさ。みんなお坊ちゃんだからさ。
みんな親と一緒に住んでて、溝の口のアパートに住んでるのは俺一人だから。
アパートにはさ友達がいっぱい泊まりにきたよ。
自分の部屋は2階で6畳くらいの部屋だったんだけど、隣にも部屋があってそこも借りてというか、大家さんに内緒でそこも用意してさ。
みんな泊まりに来て楽しかったよ。
珍しいじゃん。高校生で一人暮らしだから。
親も広江君の所に行ってくると言うと許してた部分というかさ、一人で住んでるからっていって来た子もいるよ。
俺も友達の家によく泊まりにいってたしね。歓迎されたね。
一人で暮らしてるからって、弁当を作ってきてくれる同級生の女の子もいたし。
高校は給食がないからさ、みんな弁当持ちじゃん。売店でパンとか売ってたんだけど、それを買う子もいたよ。
高校の友達は今でも付き合ってるのはいっぱいいるけど、みんな優しかったね。
家賃とか授業料とか全部自分で払ってる?
全部自分で。
お金も高校生だとその当時、小遣いが月に5,000円とかじゃん。
俺は月に25,000とか稼いでた。
パン屋の時はもっと稼いでたから、いっぱい喫茶店に行ったりとか。
小遣いとしては友達と比べたら、俺は金を持ってたよ。
このインタビューを読んで、今では考えられない事ばかりだったのではないでしょうか?
第二部は東京での暮らしから島に戻ってきた理由をお送りいたします。